ベレンの塔とはリスボンのベレン地区にある塔であり世界遺産に登録されている。16世紀にマヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。建築様式はマヌエル様式である。
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター[1]からの翻訳、引用である)。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
- 県:リスボン県
- 面積:84.8km2
- 標高:123m
- 人口:564,652人
- 人口密度:6,368人/km2
リスボンは古代からフェニキア人(カルタゴ人)などにより港として利用されてきた。当時はフェニキア語でアリス・ウボと呼ばれた。紀元前のギリシア人の集落跡が出土している。大プリニウスは『博物誌』でリスボンの創健者をオデュッセウスであるとしている。
紀元前205年にローマの支配下に入り、オリピソの名で知られる。紀元前48年にはガイウス・ユリウス・カエサルによりローマ都市の資格を与えられ、フェリキタス・ユリアと改名。属州ルシタニアの首都となった。
719年にイスラム教徒であるムーア人に占領される。以後1147年に最初のポルトガル国王アフォンソ1世がイスラム教徒より支配権を奪うまでイスラム教徒に支配された(リスボン攻防戦)。1260年には、アフォンソ3世がコインブラから遷都し、ポルトガル王国の首都となった。
12世紀にはパドヴァのアントニオがリスボンから出た。この修道士がしばしばリスボンのアントニオとも呼ばれるのはこのためである。パドヴァのアントニオはポルトガルの守護聖人のひとりとみなされている。
15世紀はじめには大航海時代の幕開けとともに、世界貿易の中心都市となって35万人の人口を有し、当時の世界最大級の都市となった。しかし1531年にはリスボン地震で被害を受け、また1569年にはペストにより6万人の死者を出した。
カルモ教会1755年、リスボン大地震で約6万人の死亡者を出した(地震の被害者総計は約9万人から10万人といわれる)。市内は津波と火災により多くの家屋も損傷し、リスボン市のみならずポルトガルの国内経済にも影響を与える甚大な被害を受けた。市内はのちにポンバル侯爵の設計で再建された計画都市となった。
1924年から1974年のファシズム政権、いわゆるエスタド・ノヴォのもとで、市街はさらに拡張された。
基本情報の出所
http://ja.wikipedia.org/wiki/ベレンの塔
http://ja.wikipedia.org/wiki/リスボン