富岡製糸場は明治(めいじ)5年(1872年)、明治政府(めいじせいふ)が日本の近代化(きんだいか) のために最初に設置(せっち) した模範器械製糸場(もはんきかいせいしじょう)です。
江戸時代末期に鎖国政策(さこくせいさく)を変えた日本は外国と貿易を始めました。当時最大の輸出品は生糸でした。輸出の急増によって需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられる粗製濫造問題(そせいらんぞうもんだい)がおき、日本の生糸の評判が下がってしまいました。
明治維新 (めいじいしん)後、政府は日本を外国と対等な立場にするため、産業(さんぎょう)や科学技術の近代化を進めました。そのための 資金(しきん)を集める方法として、生糸の輸出が一番効果的だと考えました。そこで政府は生糸の品質改善(ひんしつかいぜん)・生産向上と、技術指導者(ぎじゅつしどうしゃ)を育成するため、 洋式 の繰糸器械(そうしきかい)を備(そな) えた模範工場(もはんこうじょう)をつくることにしたのです。
自動繰糸機は煮繭機から送られてきた煮繭(にまゆ)を待機させておき、必要量の繭を索緒部に送り込む新繭補充槽、新繭と繰解部などから送り返されてきた繭とから糸口を探し出しそれをすぐって正しい糸口にする索緒装置と抄諸装置、正緒の出た繭を貯えておき必要に応じて緒繭機に補給する正緒繭待機部と正緒繭補充装置、生糸を繰る繰解部とその周りを常時巡回していて繊度が細くなった緒に繭を補給する給繭機などによって構成されています。
繰解部には繭糸を集めて繊度が一定の生糸を作り粋に巻き取る糸道機構が垂直方向に設置されています。この糸道機構には繰られている繭に新しい繭の糸口をつける接緒器、繭糸を1本にまとめ節が上がってきたときにそれを感知する集緒器、繭糸を良く接着させるとともに水分を発散させるより掛け装置、繰られている生糸の繊度が紬くなったとき、新しい繭の補給を指示する繊度感知装置、節の発生など糸道にトラブルが生じたときに繰糸を停止する小粋停止装置などよりなり、始めに人手で糸道作りを行い、運転を開始した後は自動的に生糸生産が続行される仕組みになっています。したがって繰糸作業者は最初の糸道作りのほか、主としてトラブルの修理・調整を担当しています。なお、この糸道の数(これを緒数といいます)は繰糸機の規模によって異なりますが、1セット当たり400~480緒(片側では200~240緒)設置されているのが普通です。
基本情報の出所
http://www.tomioka-silk.jp/hp/
http://www.nias.affrc.go.jp/silkwave/hiroba/Library/SousiManual/mokuji.htm